太田牛一 1527年?〜1610年?
制作中
信長公記の著者、織田家古参の牛一は、はじめは柴田勝家の家人であったと思われ、後に信長の直臣、馬廻りになります。本名「信定」ですが後に「牛一」としています。改めて本名として名乗っていたか否かははっきりしません。若いころの通称は「又助」「又左」といい、信長から直々に武功の褒美をもらったほどの弓の名人であったことも窺われます(自著、「信長公記より」)。
戦国史を読み漁る僕にとって太田牛一はとても重要な人物です。
そして織田信長を中心に戦国史の探求をする方々の、その道中には常に牛一が付き添ってくださいます。
身の丈六尺を超え、弓の名人だった“牛一”、信長の馬廻りにまでなった“牛一”。
しかし牛一は転向を果たします。信長の祐筆となり、それだけでは飽き足らず、戦場での記録活動をするようになり、晩年は自著「信長公記」を完成させます。
武勇一筋でもよかったはずの牛一。 なんとも変わった大男・・・、ということですが、この転向こそが、もののふからの転向こそが、織田信長の第一級資料としてだけでなく、ほかの武家、公家、寺などに見る言わば都合のよい伝記、記録文書と違い、事実を曲げない、観たままの資料としての価値を持つ「信長公記」を作りえた最大の要因といえましょう。また、信長のことですから、記録、日誌などに「嘘はかくな」と指示をしていたことでしょう。
おそらく牛一にとって「文章を書くこと」は至福の時だったに違いありません。
四百年以上も経った現在、その記録の評価は第一級の価値を下ることはありません。
そしてこれからも、・・・。

 トップページに戻る

晴 -hareru-