毛利新助 (1540?年〜1582年)
製作中
毛利良勝(もうりよしかつ) 通称 新助(伸介とも)
生年不詳(推定1540年頃か?)
天正十年(1582年)六月二日 京都二条城にて憤死

資料の少ない武人です。
永禄三年五月十九日、尾張と三河の国境、田楽座間(桶狭間)での戦、世に有名の「桶狭間の合戦」の折り、今川義元の首級を挙げたのが、毛利新助であったと資料(信長公記)は伝えています。
義元を追い詰めた織田隊の中から、先ずは「服部小平太」が一番槍を着けたようです。
義元の反撃に遭って小平太は膝を切られてしまいますが、そこに間髪を入れすに新助が飛び入り、組み敷いて義元を仕留めました。
この時も義元はもがき、抗いをして、新助の指を噛み契ったとも伝えられています。
想像の余談ですが、森可成に、「おまえも十九か」とからかい半分の賞賛をされたことでしょうか。
信長は報償を与える際に、小平太、新助に同等の褒美を出したようです。
桶狭間以後、新助は、将にもならず、馬周り、信長側近のまま過ごしています。
天正十年まで資料は無いといってもよいでしょう。
さて、新助は信長の嫡男、信忠と共に二条城で明智隊を引き受けての憤死を遂げます。
桶狭間、本能寺と戦国史上指折りの絵巻に登場した新助は、ほとんど資料の無い武人ですが、四百年以上も隔てた現在にも、重要人物として名を残すことになりました。